自動走行可能な移動体によるミュージアムでの鑑賞体験の個人化

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安田 知加
名古屋大学 情報科学研究科
井上 泰佑
名古屋大学 情報科学研究科
岸 佳奈恵
名古屋大学 工学部 電気電子・情報工学科
長尾 確
名古屋大学 情報科学研究科

1 はじめに

近年、美術館では利用者の教養を高めることを目指し、パンフレットの配布や音声ガイドの貸し出しなど様々な工夫をしているが、依然として利用者の鑑賞体験の質を高める方法に対する明確な答えは得られていないままである。美術館というと美術の専門家でない人にとっては、「足が疲れる」「どのようにして作品を見ればいいのかわからない」といったイメージがつきまといがちである。そこで本研究では、既に効果的な鑑賞方法を熟知した美術の専門家ではなく、美術鑑賞の初心者を主な対象とし、屋内を自動走行可能な個人用の知的移動体を用いて、実世界の美術館において利用者1人1人の鑑賞体験を豊かにするシステムを提案・構築した。

2 ミュージアムでの鑑賞体験支援

美術鑑賞によって、我々は自身の感性や観察力を向上させ、潜在的な興味や関心を喚起させることができる。ゆえに、本研究では作品を見て思いをめぐらし、様々なことに気がつく体験を豊かな鑑賞体験とする。初心者が豊かな鑑賞体験をするためには、新たな作品と出会った時に頭の中に記憶されている『画像ファイル』から関連のある作品を検索して比較しながら見ることが効果的である。作品同士の比較により、作品に描かれている人物の表情やタッチの大きさなど作品を見るための糸口を見つけることができる。さらに、過去の体験と新しい体験を結び付けることは、記憶に残る作品を増やしていくことにつながる。また、美術館での鑑賞は実世界での行動であるため時間的制約を考慮すべきであり、時間を有効活用する計画的な鑑賞体験を支援する仕組みが求められる。

以上のことから、利用者の鑑賞体験を豊かにするシステムが持つべき機能を以下に示す。

  • (a)鑑賞コースの個人化による時間の有効活用

  • (b)個人化の指標となる過去の鑑賞体験の蓄積

  • (c)暗黙的な位置認識

近年、ルーブル美術館をはじめとする多くの大規模美術館で作品の解説を聞くための音声ガイドが実用化されており、鑑賞支援の研究分野では、小型の情報端末を用いて、利用者の作品に対する評価を記録し、それを基に作成したお勧めコースや、Web上の事前見学で利用者が作成したコースを提示するシステムが開発されている。これらのデバイスを用いたシステムと移動体を用いたシステムを上の(a)?(c)の観点で比較したものを表に示す。小型の情報端末を用いたシステムでは、利用者に個人化したコースを提示することはできるが、地図を見ながらの移動は作品への集中を妨げるため時間の有効活用ができない。また、自動走行する移動体は屋内における正確な位置認識が可能であるため利用者が見ている作品を暗黙的に取得できるが、音声ガイドや情報端末を用いる場合は作品に割り振られた番号を入力したり、IDを読み取らせたりしなければならない。移動体を用いることで利用者の負担を軽減することが可能である。

3 個人用知的移動体ATと屋内自動走行

我々が開発中の個人用知的移動体AT (Attentive Townvehicle)は、搭乗者やAT自身を取り巻く環境に適応して移動する個人用の乗り物であり、メカナムホイールと呼ばれる特殊な車輪により全方位移動とその場回転が可能である。 図にATの構成を示す。

個人用知的移動体AT

図1: 個人用知的移動体AT

これまでに我々は、全方位移動が可能なATを用いた屋内自動走行を、RFID (Radio Frequency Identification)タグをランドマークとした地図情報ベースの位置認識手法により実現した。屋内の壁との距離を一定に保って走行することで地図との対応を取りやすくし、壁に設置したRFIDタグを読み取ることで位置認識を行う。そして、ATの走行可能領域とRFIDタグの位置とIDの関係を保持し、その情報を配信する各施設に用意された地図サーバが、現在位置から目的地まで走行する途中で通過すべきタグの順とタグ間の位置関係から導出される移動方法を算出し、ATがそれを基に動作するという仕組みである。周囲の情報を取得するためATは、全方位に最大30mまで物体を検知可能なレーザレンジセンサと、RFIDタグを読み取るためのリーダ、および3軸角度センサを搭載している。またタッチパネルディスプレイにより見やすく直観的なユーザインタフェースを提供する。

4 記録に基づく鑑賞体験の個人化

4.1 鑑賞体験記録の獲得

本システムでは、個人の鑑賞体験記録を各作品に対する利用者の鑑賞時間に基づいて作成する。鑑賞時間は各作品の前での停止時間であり、鑑賞体験記録とは長時間鑑賞した作品の蓄積である。鑑賞方法の個人差を考慮し、各作品の平均鑑賞時間から個人の鑑賞時間のばらつき度合いを示す標準偏差の時間を引いた時間を基準にして鑑賞時間を評価した。

この記録の作成は、長時間鑑賞した作品は記憶に残りやすいという仮説に基づいている。この仮説を検証するため、12人の被験者に8枚の絵画を鑑賞してもらい、2ヶ月後に、鑑賞した8枚を含む48枚の中から覚えている作品を選択してもらう実験を行った。システムが鑑賞時間から記憶に残っていると推定した作品と、被験者が実際に詳しく覚えていた作品を評価したところ、適合率が85.3%、エラー率が25.0%で仮説は有効であることが示された。

4.2 システム構成とインタフェース

本研究で構築した鑑賞体験の個人化システムの構成を図に示す。

システム構成図

図2: システム構成図

まず、AT上で利用者がユーザIDの登録と美術館滞在予定時間の設定を行い、その情報を美術館側のサーバに送信する。サーバでは、利用者ごとの体験記録を保持するデータベース(鑑賞体験記録ベース)に蓄えられた該当利用者の体験記録と、絵画のデータベースに格納された情報を照合して、利用者が過去に訪れた美術館で鑑賞した作品と関連する作品を選出する。次にサーバにおいて、選出した作品の位置情報から利用者が設定した予定時間内で、可能な限り移動時間を短く、適切な数の作品を鑑賞するコースを生成する。コース決定後、ATは鑑賞すべき作品の前で停止しながらコースに従って自動走行する。そして、鑑賞が終了すると同時に新たな体験記録が生成され、鑑賞体験記録ベース内の記録を更新する。

また、ATのディスプレイの表示内容を図に示す。利用者は画面上のボタンを押すことで、次の作品へ移動したり、途中で気になった作品まで後戻りしたりすることができる。さらに、作品の前で停止した時に解説選択ボタンを押すことで、複数の観点からの解説が画像と音声で得られる。利用者は、鑑賞を開始してからの経過時間や走行中のコースを常に確認することができ、時間の管理を行いやすいインタフェースになっている。

ディスプレイ画面

図3: ディスプレイ画面

4.3 有用性の確認

本研究で構築した美術館での鑑賞体験を個人化するシステムの有用性を確認するため、美術館Aと美術館Bの2つの簡易的模擬美術館で、美術の専門家でない被験者10人にシステムを利用して時間制限付きの鑑賞体験をしてもらった。各美術館の展示作品数は8枚で、展示作品とそれらに関する解説は、Webページや文献を参考にして筆者が作成した。美術館Aでの鑑賞体験記録を基に、美術館Bで鑑賞すべき作品の選出を行った。現在実用化されている情報端末を携帯して鑑賞した場合の体験と、本システムによりATに搭乗して鑑賞した場合の体験を被験者に比較させるため、美術館Bでは本システムを利用した場合と、情報端末を携帯した場合の計2回の鑑賞を行った。各回ともに鑑賞時間を10分に制限し、どちらの手法が鑑賞体験をより充実させたかについてアンケート調査した。

アンケートの結果、10人中9人が本システムを利用してATに搭乗した方が、10分の制限時間を考慮すると歩行するよりも充実した鑑賞体験が可能だった、作品に関して気付いたこと・感じたことが多かったと回答した。また、被験者全員が、本システムで選出した作品が過去の鑑賞体験との関連性を意識させる作品だったと評価した。

5 今後の課題

本研究で構築したシステムは混雑した美術館では対応できないため、今後は複数台の移動体が存在する状況でも対応可能にする必要がある。複数の移動体の動作を美術館サーバが管理する仕組みを実現することで、混雑の発生を未然に防いだり、待ち時間を有効活用したりするように各移動体を走行させることが可能であると考えられる。